訪問日誌

パレスチナ・ヨルダン渓谷訪問日誌(2)

-住む権利、教育を受ける権利、医療を受ける権利を考える旅-

投稿日: 2010年6月13日 作成者: jvsj

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パレスチナ・ヨルダン渓谷を再訪しました。訪問日誌その2をお届けします。滞在先では、同委員会のコーディネーターであるファトヒ・ク デイラートさんの出身地であるバルダラ村、1948年に難民となったズベイダット一族からなるズベイダット村、地図上には記されていないバッサリヤで民泊 させてもらいながら、毎日、渓谷の村々を回りました。ここでは、バルダラ村、アイン・アル・ベイダ村、ジフトリック村の状況について報告します。

【バルダラ村】
オスロ合意上、B地区(行政権はパレスチナ側が、治安権はイスラエル側が有している地区)に指定されているバルダラ村(ヨルダン渓谷北部の第一次中東戦争 の停戦ラインのすぐ近くにある村。人口約1600人)の入り口には、「市民へ:イスラエル市民の入村は、この地区のイスラエル軍の司令官の命令によって禁 止されている」と書かれた看板が建てられています(下の写真、09年12月28日撮影)。

95%以上の土地がイスラエルに収奪されているヨルダン渓谷。ここでいう「市民」(看板のスペルは、Citzenとなっていますが)とは、当然なが ら「イスラエル人」のことを指しています。占領下においているパレスチナ人を「市民」と表記するはずもないですし、そもそも「市民」として考えることもな いからこそ、イスラエルは家屋破壊や移動の自由の制限等、挙げていけばきりがないほどの人権侵害の数々をパレスチナ人に行ってきたのです。

バルダラ村のなかには、入植地用の水をくみ上げるためのイスラエルの国営水会社「メコロット社」の井戸が3本も作られています(下の写真、2009年12月27日撮影)。
その1本がここで示す写真のものです。まわりは鉄条網に囲まれています。もともとバルダラ村には村民のために3本の井戸がありました。しかし、1970年 代に村民の井戸に比べると約10倍もの深さでイスラエルの井戸が掘られたことにより、村民の井戸の取水量が大幅に減ってしまいました。それだけでなく、イ スラエル軍によって井戸の整備が意図的に妨害されたために、井戸を使うことができなくなったのです。村民はイスラエルの水会社(主にはメコロット社から) から少量の水を供給される形で生活しています。バルダラ村の住民の多くは農業に従事しており(90%以上)、水がなければ家族の生活の糧を得ることはでき ません。しかし、給水量が大幅に制限されているため、農民たちは栽培する量を減らさざるを得ませんでした。また、水撒きの回数が少なくとも育つような作物 を育てる等の工夫をしながら、農業を続けてきたのです。どこの家も同じ作物を栽培することになるため、出荷時の価格にまで影響が出るようになりました。

バルダラ村の農民は畑だけでなく、羊や牛なども飼養しています。朝になると、ロバに乗った羊飼いや牛飼いが家畜の群れを率いて放牧に出かける姿を目にします(下の写真 2009年12月28日撮影)。
これらの家畜は、食用の肉として販売されるだけでなく、チーズやヨーグルトなどの乳製品の原材料を産み出してくれます。グリーンライン上に設置されている イスラエルの検問所(バルダラ検問所)の通過が難しいため、バルダラ村の生産物(農作物、肉類、乳製品等)の多くは、ヨルダン川西岸地区内のパレスチナ人 の市場に出荷されているそうです。グリーンラインのすぐ外にはイスラエル国籍を有するパレスチナ人が住んでおり、これらの人々の多くはハラル・ミートを必 要としていますが、近距離に住んでいるバルダラ村の農民たちは検問所があるために、これらの人々への生産物を販売できずにいるのです。

ヨルダン渓谷連帯委員会のメンバーは、バルダラ村の子どもたちのために、畑の横にわずかに残っているスペースを使って、公園づくりの作業も行ってい ました(下の写真 2010年1月4日撮影)。完成すると、子どもたちは滑り台やブランコを楽しむことができるようになります。作業の途中にもかかわら ず、子どもたちが集まって大騒ぎをしていました。訪問から2ヵ月近くが経過した現在では、子どもたちがたまにはケンカもしながらも、楽しそうに遊んでいる ことでしょう。

あるパレスチナ人の家の壁には、ヨルダン渓谷連帯委員会のスローガン「存在することは抵抗すること」をアラビア語と英語で記したシールが貼られてい ました。このシールは、後に世話になるバッサリアのパレスチナ人宅でも何枚も目にしました(下の写真)。はがきサイズにも満たない小さなシールですが、デ ザインとして使われているアザミの花は苛酷な状況下に住む住民たちの強い意志を表しているように思え、見かけると少しだけ嬉しくなりました。

【アイン・アル・ベイダ村】
アイン・アル・ベイダ村(人口約1200人)はバルダラ村からほんの少し南下したところにあるB地区の村です。土地の多くがイスラエルの入植地用に接収さ れた上に、残っている土地(=現在の村)は入植地の畑やバナナのプランテーションにぐるりと囲まれています。土地の収奪によって自作農を続けることができ なくなったたために、入植地の畑で働かざるを得なくなった農民も多数います。イスラエルの入植者は通常、周囲の村に住んでいるパレスチナ人を雇いたがらな いのですが、アイン・アル・ベイダ村を囲んでいる入植地の畑で話を聞かせてくれた農民たち(下の写真 2009年12月28日撮影)は全員、この村とバルダラ村出身でした。農民たちは朝6時から夜9時まで働いて(なかには短時間労働の農民もいます)、一日 あたり100シュケルほど(約2400円。少ないときは60シュケル)の賃金しかもらえないとのことでした。途中でわずか30分ほどの昼食時間が入ります が、あとは休憩時間もないそうです。雇用にあたり、雇用主との間で仕事中に負傷をしても保険や補償を求めないことを約束した文書を交わすように言われま す。すなわち、労働者としての権利を自ら放棄することを求められるということなのです。このように無保険・無補償で働かされているために、仕事中に負傷し ても自分たちでパレスチナの救急車を呼ぶしかなく、また医療費は自費払いとなるのです。

【ジフトリック村】
C地区(行政権、治安権ともにイスラエル側が掌握している地区)に指定されているジフトリック村(人口約3700人)はヨルダン渓谷最大の村です。この村 は入植地、イスラエル軍の基地、軍事閉鎖地区、検問所等に囲まれています。入植地やイスラエル軍の基地などはこの村の住民から奪った土地に作られたもので す。住民のなかには、上記の二つの村と同じく、入植地の畑で働いている人々もいます。占領下で土地を奪われることがなければ、自分の畑で農業をして生計を たてるところですが、他に仕事を見つけるのも困難ななかでそうでもしなければ生活が成り立たないのです。

B地区のバルダラ村やアイン・アル・ベイダ村とは違い、ジフトリック村は住居・学校・クリニックにいたるまでイスラエルの許可なしには建てることが できないため、住民たちは非常に厳しい住環境を強いられています。許可なしに家を建築・改築・増築するとイスラエル軍に破壊されてしまうため、人々はぼろ ぼろになった住居に住み続けてきました。また、婚姻などによって実家から独立してもきちんとした家を建てられないため、畑の横にトタンやプラスチックの シートで補強した小さな「小屋」のような家を建て、そこで暮らさざるを得ない状況に置かれています(下の写真1 2009年12月29日撮影、同2 2009年12月28日撮影)。プラスチックシートやトタンで作った住居は家として見なされず、許可なくとも破壊されないそうですが、コンクリートで建築 すると、住居として見なされ、許可がない場合、破壊対象となります。もちろん建築許可が発行されることはほとんどありません。プラスチックシートやトタン は傷みが早いため、繰り返し補強しなければならず、そのためのコストもずいぶんかかります。

電気や水が通っている家に住んでいる人々は住民のわずか25%にすぎません。これらの水道管や電線もオスロ合意以前に作られたもので痛んでいます が、イスラエルから許可をもらえないため、整備できずにいます。村を案内してくれたヨルダン渓谷連帯委員会のメンバーであるランダさんの家にはイスラエル の会社が供給する電気が流れていますが、供給量が少ないためにパワーが弱く、複数の電化用品を同時に使うことができないそうです。また、彼女の家には水道 が通っていないため、イスラエルの水会社が週に3回運んでくる水を家に備え付けてあるタンクに保存して使っていますが、量が少ない上に料金が高いので節約 しながら使っているとのことでした。

ヨルダン渓谷連帯委員会は、特にC地区に住む住民の住環境を改善するために、クリニックや学校などの建築や住居の再建・改築のための活動を行ってき ました。破壊されるかもしれないけれど、自分の土地に住む権利を行使し、人間らしい生活を営むために家や学校を建てるのです。C地区であるジフトリック村 やファサイル村は同委員会が力を入れてコミュニティワークを行っています。クリニックや幼稚園も出来上がりました。クリニックには医者が一人常駐していま す。週に2回、女性医師が他地域からやってくるそうです。また2年前に古い住居を改築して作られた幼稚園には、30人の幼児が通っています。調査中に同委 員会の活動によって改築された家をいくつか訪ね、住人から話を聞くことができました(下の写真1 2009年12月29日撮影、同2 2009年12月29日撮影)。少しずつですが再建プロジェクトが進んでいるのが分かります。

話を聞かせてもらった住民の一人のジャマルさんは、建築許可がないことを理由に3回も自宅を破壊されたそうですが、再建することで抵抗し続けてきま した。ジャマルさんの最後の話のなかにも、スローガン「存在することは抵抗すること」が出てきました。バルダラ村、アイン・アル・ベイダ村、ジフトリック 村・・・。ヨルダン渓谷のどの村に行っても、それを実践し続けている人々に出会います。

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パレスチナ・ヨルダン渓谷訪問日誌(1)

投稿日: 2010年6月13日 作成者: jvsj

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【イスラエル軍に轢き殺された羊:2009年5月1日撮影】

ヨルダン渓谷のメホラ入植地の近くに住むベドウィンの一族(4家族)によって飼われていた羊が、イスラエル軍のジープによって轢き殺されました。話を聞か せてくれた飼い主の一人のおじいさんは、「私たちはここで生活をしているだけで、何か問題を起こしたいわけではないのに。子どもがこんな形で殺されるかも しれないと思うと・・・。国際社会は、イスラエルが占領をやめるよう、プレッシャーをかけてほしい」と言っていました。

【ヨルダン渓谷の入植地の一つ:2009年5月1日撮影】
ヨルダン渓谷を車で走っていると、あちこちにきれいな家が立ち並ぶ入植地を見かけます。たった一人しか住んでいない入植地もあります。その一方で、ヨルダ ン渓谷在住のパレスチナ人は、生活に欠かすことができない水へのアクセスが大幅に制限されたり、家や住居用テントを破壊されるなどの人権侵害を受けていま す。

【ヨルダン渓谷の入植地で栽培されているハーブを扱う農産業の会社の看板:2009年5月1日撮影】
“JORDAN RIVER HERBS”というのは、ハーブの取引を行っている入植地企業の名前です。邦訳すると「ヨルダン渓谷ハーブ」とでもなるでしょうか。
この看板は、ヨルダン渓谷北部にあるメホラ入植地の農地に会社の場所を示すために建てられていました。それにしても、あまりにも露骨な名前の会社ですね。

【水を求めて4時間!:2009年5月1日撮影】
ヨルダン渓谷北部の村アイン・エル・ベイダの近くにある井戸(パレスチナ人が水量に制限があるものの、使用を許されている数少ない貴重な井戸)を訪ねたときに、車で牽引できる水のタンクがついたトラクターを運転している男性がやってきました。
やっとの思いでたどりついた井戸から水をタンクに汲みいれている最終に、その男性(左手前)から話を聞かせてもらいました。ベドウィンとしてテント生活をしているという彼は4時間もの間、家族の飲み水を探し続けていたのでした。
「飲み水がない。問題なんてもんじゃないよ。大問題だよ。」毎日、毎日、水を探し求める生活。使用許可のない井戸や泉に近づこうものなら、イスラエル軍に逮捕されるか、撃たれてしまうかもしれないのです。

【たった一家族になったとしても・・・:2009年5月1日撮影】
ヨルダン渓谷のマルジ・ナジャ村から幹線道路の90号線を少しだけ北上したところに、マジットさん(推定75歳)一家が住んでいます。ここはかつて学校やクリニックがあった村でした。今では地図に載っていません。
マジッドさんは1967年の第三次中東戦争直後にイスラエル軍に追い出されたため、ヨルダン川を超えて東岸(現ヨルダン)に避難しましたが、約一ヵ月後に は村に戻ってきたそうです。当時は、夜のうちに自分たちの村に戻ろうとして国境付近を歩いていたパレスチナ人がイスラエル軍によって射殺される事件が頻繁 にあったそうです。

占領下で次々と住民が追い出され、ついにはマジッドさんの家族だけが地図上から消された村の住人となりました。何度も追い出されそうになりましたが、マジッドさんは妻と一緒に住みなれた土地に居続けることで、40年以上にもわたる長い抵抗を黙々と続けているのです。
下の写真は、マジッドさんの家の裏手にある丘の上から撮影した様子です。遠くにヨルダンがみえます。家には山羊、ニワトリ、ガチョウ、鳩などが飼われていました。

マジッドさん一家を紹介してくれたのが、2007年の秋に来日し、ヨルダン渓谷の状況を各地で講演されたファトヒ・クデイラートさん(下の写真の中 央)です。現在、彼はヨルダン渓谷の草の根の住民組織であるヨルダン渓谷連帯委員会コーディネーターとして、毎日、渓谷内のコミュニティを訪ね歩いていま す。住民たちが占領下で抱えている問題に耳を傾けながら、一つ一つ丁寧に対応している姿が印象的でした。マジッドさんの家の一部もヨルダン渓谷連帯委員会 の支援で建て直されています(下の写真の左側の部分)。

「存在することは抵抗すること。」ファトヒさんにヨルダン渓谷を案内してもらっているときに、何度もこのスローガンの意味の深さを考えさせられました。

【ヨルダン渓谷の入植地のグリーンハウス:2009年5月1日撮影】
車でヨルダン渓谷内を移動していると、入植者のグリーンハウスを各地で目にします。ヨルダン渓谷は水面下380メートルに位置し、地下水を豊富に使うこと ができる上に、温暖な気候であることから、農業に適した非常に肥沃な土地です。入植地経済は、このような恵まれた条件を利用して農産物を作り、海外(主に はヨーロッパ市場)に輸出することで成り立っています。土地を奪われ農業ができなくなったパレスチナ農民のなかには、労働権も社会保障もないまま、入植地 内の農地で安い労働力として働かざるを得なくなった人々もいます。とんでもない人的、経済的搾取です。

【ヨルダン渓谷のアイン・アル・ベイダ村に立つ看板とグリーンハウス:2009年5月1日撮影】
ヨルダン渓谷の北部に位置するアイン・アル・ベイダ村(第一次中東戦争の停戦ラインであるグリーンラインの近く)に行くと、米国版ODAであるUSAID から援助を受けて作られたパレスチナ農民のグリーンハウスがありました。このグリーンハウスにかかる費用の半分をUSAIDが出し、残りをパレスチナ農民 が出したそうです。

看板の後ろにあるグリーンハウスに入ってみると、明らかに収穫がなされないまま、放置されているトマト畑やピーマン畑が広がっていました。グリーン ハウスの所有者であるパレスチナ農民がトマトなどの収穫物をヨルダン川西岸地区以外の市場に出すためには、ベイトシアンに向かって90号線を北上したとこ ろにあるグリーンライン上の検問所を超える必要があります。しかし、検問所では長時間待たされることで鮮度が落ち、商品価値が低くなってしまう上に、多額 の輸送費用がかかり、利益になりにくいのです。したがって、このグリーンハウスの農民たちは、市場への出荷をあきらめてしまいました。トマトやピーマンは そのまま育っていくので、訪問した人が誰でも取れるような状態のまま野放しにされていました。USAIDの援助を受けたとき、パレスチナ農民は借金をして この農地に投資をしたそうです。したがって、利益を得ることができない現状のままでは、借金だけが手元に残ってしまうのです。占領下での支援の在り方を考 えさせられる一例でした。私たちも赤く実っているトマトをちぎって食べましたが、おいしいはずなのに、なんともいえず悲しい味がしました。

【アイン・アル・ベイダ村の近くにある入植者のための貯水池とその隣にあるパレスチナ農民の家に備え付けられていた水タンク:2009年5月1日撮影】
上記のグリーンハウスを出て、少しだけ車で行くと、入植者のための貯水池がありました。この貯水池のすぐ隣にはパレスチナ農民の家がありますが、住民は貯水池を利用することは一切許されていません。あくまで入植者の農業用水等の使用に限られたものなのです。

隣に住むパレスチナ農民の家の外には、二つの大きな水タンクが備え付けられていました。ラベルには、ユニセフなどの資金提供を受けて供給されたもの であることが示されていました。また、このラベルには、大きな字で「生活水」(Water for Life)と書かれていましたが、これは文字通りまさしく、「命のための水」なのです。ヨルダン渓谷ではパレスチナ人が水へのアクセスを著しく制限されて いるため、たとえ隣に貯水池があったとしても使用できず、生活水の確保すらままならないのです。

【自家発電に頼らざるを得ない家族:2009年5月1日撮影】
ヨルダン渓谷のマルジ・ナジャ村から90号線を少しだけ北上したところに住んでいるマジットさんの家族のことは、すでに上記で紹介しました。ここでは、こ の家族が瀕している電気問題に触れておきたいと思います。同渓谷に住むパレスチナ住民は電気不足に陥っています。A地区(パレスチナ自治政府が行政権・警 察権ともに有している)や B地区(パレスチナ自治政府が行政権を有し、警察権はイスラエルとパレスチナ自治政府が有しているが、イスラエル側が有利)に住むパレスチナ人は、エルサ レムの電気会社やヨルダンの電気会社が送電する電気に頼っています。しかし、マジッドさんのようにC地区(イスラエルが行政権・警察権ともに有している。 ヨルダン渓谷の94.4%)に住むパレスチナ人は、自ら燃料を買い、発電機を動かして電気を得る生活を余儀なくされています。
マジッドさんの家を訪問したときに、ヨルダン渓谷連帯委員会のコーディネーターのファトヒ・クデイラートさんが、電気問題を説明してくれながら、燃料費が かかるジェネレーターを使わずに、なんとか発電させることができないかどうかを聞いてきました。以前、訪日した際に秋葉原で、手でレバーを回しながら発電 する小さな器具を目にしたそうです。太陽電池をつかった簡易なシステムを使うなどの方法もあるかもしれません。「支援」課題の一つだと思います。

【ズベイダット村のサッカー場の様子:2009年5月1日撮影】
上記のマジッドさんの家を90号線沿いに南下するとズベイダット村があります。B地区に指定されている村ですが、1800人からなる住 民は1948年のナクバのときに、住んでいたベルシェバを追放されて、難民となりここにたどりついたズベイダット家の一族とその子孫ということです。一族 の半分はヨルダン川を越えて東岸で難民生活を送っていますが、半分はこの地に残り、難民キャンプではなく正式な一つの村を形成しました。1967年の第三 次中東戦争のときに、半数以上の村民がヨルダン側に避難し、その一部はもう一度村に戻ってきたとのことです。住民たちと話をしているときに、UNRWAの 難民登録書を見せてもらいました。
大変驚いたことに、住民たちは隣接するアルガマン入植地との間にある丘(C地区。オスロ合意前は、ズベイダット村の土地)を利用して、サッカー場を自らの手で作ったというのです!

ブルドーザーを持ってきて大きな岩を除き、平地にしたのですが、途中で住民たちの動きに気がついた入植者がイスラエル軍を呼んだり、住民がサッカー 場に近づけなくするために大きな岩を置く妨害をしたそうです(下の写真)。そんなことには負けず、住民たちは入植者の監視が緩くなるユダヤ教の祝日などを 利用して作業を続けたそうです。機知に富んだ住民たちの抵抗の在り方に感服しました。また、第一次インティファーダの精神が脈々と残る姿を見せつけられた ように思いました。

【ヨルダン渓谷で農業に励む人々と破壊された自分の家を再建する男性:2009年5月9日撮影】
ヨルダン渓谷を移動していると、残されたほんのわずかの土地を使って、先祖代々から受け継がれてきた農業に励むパレスチナ農民の姿を目にすることがありま す(下の写真)それは大変美しい姿ですが、占領下での厳しい出荷状況を考えると、これらの人々の困難を思わずにはいられません。

一方で、同渓谷の大部分を占めるC地区では「建築許可」がないことを理由にイスラエル軍に破壊された家を再建している住民たちがいます(下の写 真)。問題調整事務所が2008年5月に発表した報告によると、2008年上半期の前半にC地区で破壊されたパレスチナ人の住居の86%がヨルダン渓谷内 で起きたものです。C地区に住むパレスチナ人が建築許可申請をしたところで、許可される可能性はほとんどありません。このような状況においても、人々はヨ ルダン渓谷連帯委員会の支援を受けながら、壊されても、建て直すことで抵抗しているのです。

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